厄除け
大本山成田山仙台分院の厄除け
厄除け
特にこれと言われなくとも「今年は厄年だから、厄除けをして気をつけなさい」「神社仏閣へいって厄除けをしたほうがよい」ということは聞いたことはありませんか?
では、具体的に「厄」というものは何なのでしょうか。
そして、私達の生活の中にどのようにして関わって来ているのでしょうか。
わたしたちは、目に見えないものを災難とし、除けるように ふるくから生活の知恵としてきました。
また、全国的に知られている厄除けでも、地域によって、少しずつ使うものや、時期が異なっているのも面白いものです。
厄除けは、どれが正しいというのはなく、全部正しいとも言えます。
又、こうした昔から言われている、厄除けのやり方が、現在では効果があるのか?という声もあります。
しかし、こうした古くから続いている厄除け、現在に残って言い伝えられている厄除けは、やはり効果があるから守られてきたとも言えます。
それなりに厄除けには意味があるものなのです。
どうぞ、先人たちの知恵を知ってより良く生活して生きましょう。
又、「これで厄除けができるんだ」と自分に言い聞かせて実行に移せば、自然とその気になり、厄年からくるストレスが解消されるという効果はあるでしょう。
そうして精神状態を明るい方向に転じさせることができれば、マイナスの凶相を呼び込まずに、プラスの吉相の運勢の波に乗ることもできるでしょう。
厄除けの知識
厄除けの期間
厄年とは1年のうちでどの時期をいうのでしょうか?
厄年といえども、順々にまわり、年があけるように、同じく期間があります。
厄除けの厄年はだいたい、その当たっている年の始めより終わりまでの1年間とすることが多いようです。
厄除けは地方によって、これは異なってくるが、旧暦の年の始めより年の終わりまで、とするところもあるようです。
ただ、今だと厄除けの扱いは、やはりカレンダー通り1月元旦より12月大晦日のほうがわかりやすいので、それが主流となっています。
しかし本来の考え方ですと次のようになります。
厄除けの厄年は、正月元旦を過ぎて節分までの誕生月の方(1月1日から2月3日ごろ)は前年の扱いとなり、前年の十二支、九星になっていきます。特に厄年を考えていく時はそのり区切り方のほうが多いです。
カレンダーどおりの考えかた
昭和44年11月01日生まれ 四緑木星・酉
昭和45年02月01日生まれ(元旦のあと)三碧木星・戌
ですが、本来の考え方
昭和44年11月01日生まれ 四緑木星・酉
昭和45年02月01日生まれ(節分のまえ) 四緑木星・酉
は 四緑木星・酉年の前年扱いというような形になっていきます。
今のカレンダー通りとはちょっと違いピンとこない方も多いと思うが、厄除けの厄年で分けて考えていく場合には、このようになるのでしょう。
自分が元旦〜節分までのお生まれでなくとも、ご家族やお知り合いの方がその生まれでしたら気をつけてあげましょう。
厄除の贈り物とお返し
厄除けの贈り物には、長いもの、うろこ模様のもので、肌身離さずに所持できる物とされています。それは、恵比寿と大黒の化身が竜神だとされるためです。
例えば、
男性…ネクタイ ベルト 財布 定期入れ 名刺入れ
女性…ベルト スカーフ ペンダント 財布 定期入れ、帯といったものです。
又、うろこ模様の財布に代表できるような、青海波、鮫小紋、江戸小紋 などの細かい染模様をあしらった小物がよいでしょう。
お返しには、他の人を巻き込まない様に食べ物や日用品を、又、厄年が無事に終わった時には内祝いを贈ったりします。
厄を迎えたら
厄を迎えたら、ご加護をいただいて災厄が身に降りかからないよう、お参りして厄をはらってもらいます。
厄年の前年の大晦日・当年のお正月に神社へお参りをしたほうがいいです。
そして、お守りを買ってください。
厄払いの祈願では、祈願料を奉納してください。
祝宴を開き、災厄を来てくれた人に持ち帰って祓ってもらってください。
厄除け:神社で櫛や手ぬぐいなどの小物を故意に落として厄を落とすことができるそうです。
小正月や節分に再び正月を祝い、厄年を送り出します(年重ねの祝い)。
このような事柄を行って、災厄を落としたそうですので、皆様もぜひ試してみていかがでしょうか。
厄除けと神仏
厄と神仏
日常生活の中で厄除けし、悪いものを落とすのが一番ですが、たまには神社仏閣にお参りしたり、行事にも参加したりしてみて厄除けしてください。
普段、参拝するときに神様や仏様に手を合わせてお願いすることは、とても強力な厄除けだそうです。神社仏閣へは、できるだけきちんとした格好で出かけるようにし、厄除けしましょう。
仙台成田山は修養日以外に毎日僧侶が待機しています。 厄除け大師の異名をもつ弘法大師・空海
厄除けと言えばお大師様。
弘法大師は全国各地を旅して、全国各地に、弘法大師が休憩の際、杖を立てたら、そこから温泉が湧き出したとか、立てた杖や箸が成長して大木になったとか、種々の不思議な伝説が点在しています。
大師というのは、朝廷が高僧に対して贈る号です。二十人のお大師様のうち、最も有名なのが、真言宗開祖の空海です。
空海が旅した中で、四国八十八カ所や全国各地の地域名を冠した八十八カ所は、すべてが真言宗系の寺院ではないが、弘法大師の拠点となっています。
四国八十八カ所を巡拝するお遍路さんが、一人旅でも(同行二人)と書くのは、弘法大師が一緒に旅をして守護してくれるからだといわれています。
さらに弘法大師は厄除大師ともいわれ、神奈川県川崎市の川崎大師や東京都足立区の西新井大師(総持寺)は、厄除寺院として広く信仰されています。 厄除けと空海の立木観音
宇治川ラインの石山から下流、ちょっと入るところに立木観音があります。
空海が42歳の厄除けの厄年にこの山を過ぎたところ、光を放つ木があるそうです。ときに忽然として白鹿が現れ、背に乗せてその木の前へ導き、鹿はやがて観世音の姿となって消えうせました。
大師奇端に感じて厄除のため、その木のまま自分と等大(五尺三寸=1.6メートル)の聖観音を刻したと言われています。
仙台成田山では空海(弘法大師)の像を安置しておるので、どうぞお気軽におまいりください。 全国の有名な厄除け神社・仏閣
全国各都道府県には、厄除けにまつわる由来や、厄除けの風習が残っています。そういった所には、厄除けで有名な神社や仏閣があるものです。その有名な所をいくつかを上げてみましょう。
- 大本山成田山新勝寺・・・千葉県成田山(厄除け・平和祈願で有名)
- 薬王寺・・・徳島県海部郡(厄除けで有名)
- 三仏寺・・・鳥取県三朝町(厄除け・家内安全・商売繁盛・安産で有名)
- 喜多院・・・埼玉県川越市(家内安全・諸願成就で有名)
- 出雲大社・・・島根県簸川郡(縁結び・厄除けで有名)
- 大宰府天満宮・・・福岡県太宰府(学問の神・至誠の神・厄除けで有名)
- 新宮神社・・・高知県南国市(夏越の祓い・厄除で有名け)
- 医王山光蔵寺・・・愛媛県今治市(厄除けで有名)
- 金毘羅宮・・・香川県琴平町(農業殖産・漁業航海・医薬・技芸・厄除けで有名)
この他にも全国には厄除けで有名なたくさんの神社仏閣があります。
その中で開山以来1070年の間、護摩供の香煙が一日たりとも絶える事がないという成田山新勝寺についてのいわれをあげてみましょう。
成田山は、弘法大師が自ら開眼した不動明王像を本尊とし、真言密教の護摩法の正系を伝えているとされています。大本山成田山新勝寺は、940年に寛朝によって千葉県に開山されました。
寛朝は朱雀天皇より平将門の乱平定の命を受け、弘法大師が敬刻開眼した不動明王を奉持し、難波の津の港より海路を東上して尾垂ケ浜(千葉県)に上陸、さらに陸路を成田の地に至り、乱平定の為平和祈願の護摩を奉修したといいます。
その縁起によれば、次のような言い伝えが残っています。乱の平定という任を果した寛朝は再び都へ帰ろうとしたが、不思議にも不動明王は磐石のごとく微動だにしません。
やがて(我が願いは尽くる事なし、永くこの地に留まりて無辺の衆生を利益せん)との霊告が響きました。
これを聞いて、天皇は深く感動し、国司に命じてお堂を建立し、「新勝寺」の寺号を授与、ここに東国鎮護の霊場として「成田山」が開山したということです。
自分でできる厄除け
自宅でできる厄除けと成田山祈願文
伝統的な厄除けを本格的にとり行おうというのなら、厄除け祈願をしてくれる神社や仏閣に出向くしかありません。
しかし、自宅で厄除け風の厄除けをしたいというのであれば、それもまた可能です。つまり、神社や仏閣の厄除け祈願で唱えてもらえる厄除け祈願文を、自分で唱えればいいのです。
参考までに、成田山・不動明王の祈願文の一部をご紹介しますので、興味のある方は、祈願文を声を出して読んでみるといいでしょう。
気息を整え、一字一語を大きな声でゆっくりと読み上げ、心に響かせるのが、正しい唱え方のポイントです。
災厄の穢れを清めるといわれる祈願文は、毎日神社や仏閣で唱えられていますので、日々の暮らしの中に取り入れるには最適でしょう。 祈願文
ほんじつふどうみょうおうをさんぱいし
ねんごろにしょがんじょううをいのる
本日不動明王を参拝し
懇に諸願成就を祈る
誠に信心堅固也矣
あおぎねがわくば
ごほんぞんだいにちだいしょうふどう
仰ぎ願わくば 御本尊大日大聖不動
みょうおうしゅじょうのいにしたがって
明王衆生の意に随て
しかもりえきをなたもうの
而も利益を作給うの
ほんちかいをめぐらしてしんちゅうのしょがんを
本誓を廻らして心中の所願を
まんぞくせめたまわんことを
満足令めたまわんことを
うやまってもうす
敬て白す 自分でできる厄除けの方法
家の中にたまっている厄(ケガレ)を放置しておくと、ますます症状が悪化してしまいます。住まいの厄を除けるにはトイレ、浴室、洗面所、キッチンなどの水まわりをていねいに掃除することです。
水垢やカビ、排水口の汚れは徹底的に落とし、換気扇もクリーニングしましょう。
掃除したあとは、それぞれの水場に盛り塩をしておくといいでしょう。
玄関は、その家に出入りする人が、外から持ってきた厄を除ける空間です。
ここが汚れていると十分に厄を除けられず、家の中にそのまま厄が持ち込まれることになるので要注意です。
厄年のラッキーファッションは、「キラキラ光るもの」です。
落ち込んだ時はどうしても黒やグレーなどのモノトーンを身につけがちだが、運気を底上げするためには、ゴールドやシルバー、パールの力を借りましょう。
黄色やピンク、オレンジ色など、明るい色の服も、気持ちを明るく引き立ててくれます。
厄除けの行事と風習
厄除けと赤いちゃんちゃんこ
還暦60歳になるとあかい頭巾をかぶり、ちゃんちゃんこを着てお祝いをします。これは、あかい衣類が魔よけになるという考え方からきている行事です。
昔は厄年にも同様のことが行われていました。若い世代の場合、男子は赤いふんどし、女子は赤い湯もじをして厄よけをしました。 厄除けと十三まいり
「十三まいり」は、女の子が13歳になったのを記念して、旧暦の3月13日、現在では4月13日前後に行われている行事です。
この日に虚空蔵菩薩にお参りをすると、災厄を除き、福徳と智恵と音声を授かるという一説があります。
この儀式は、安永2年(1773年)、京都の法輪寺で始まった行事と言われております。
”虚空蔵さん”と呼ばれ、京都の人々に親しまれているが、虚空蔵菩薩は「人には3つの厄がある。その災厄を除き、智福を与え二世の願いを成就せしめん」と述べました。
13歳というのは、女の子がちょうど心理的にも生理的にも大人へと成長する過渡期にあたるので、この時期に福徳と智恵と音声を賜り、立派な成人にしようとする願いがあるからこの儀式がはじまりました。
過去、その日には、お寺の境内で13品の菓子を売り、参詣人はこのお菓子を買い求めて、虚空蔵菩薩に供え、のちにこれを持ち帰り、家のものに食べさせるのですがが、今は廃れてしまいました。
最近になり、法輪寺のみならず、全国の虚空蔵菩薩をいただく寺院で「十三まいり」が復活しています。
みんなさまもどうぞお参りになってください 子捨てと厄除け
42歳の厄年に生まれた子をいったん形式的に捨てるという風習です。
親のどちらかが厄年の時、生まれた子供は(厄子)と呼ばれ、育ちにくいと言われています。この為、いったん子供を捨て、他人に拾ってもらってから育てるという風習が全国各地に残っています。
もちろん、あくまでも捨てるまねをするだけですが、箕に入れて道祖神の前や、四辻に捨て、あるいは橋の下でタライに入れて、流す事もあるそうです。
又、七軒とか三軒とか決められた数の家から、食べ物等をもらい集めてきます。
身体の弱い子に三十三軒からもらい集めた布きれで着物を作りそれを着せれば、丈夫に育つという風習です。
大勢の力を借りることにより、悪霊への抵抗力を強めるという考え方が根底になっているようです。
厄除けの夏越し祭
厄除け
夏越し祭は半年間の罪やけがれを清め、厄をお払いする行事です。神社で茅の輪くぐりなどを行ってお神札を家の神棚に供え、無病息災、厄除けを祈ります。 茅の輪とは六月の末、神社に参詣すると、相撲の土俵をタテにするようなものが立てられています。この茅の輪をくぐると、半年分の不浄が茅の輪に移って、身が清められるといいます。 「夏越の大祓」の神事では、ヒトカタと称する白紙で作った紙人形を配布し、そのヒトカタで体をなで、息を吹きかけてもらいます。
こうして罪・穢れを付着させたヒトカタを集め、川や海に出て大祓を唱えながら流す。全国各地に伝わる流しビナの風習や、東北地方のネブタ流しも、本来の意味はこうしたヒトカタに罪・穢れ・病気などを託して流す事にありました。
この茅の輪は罪穢・疫気を祓う祭具の一種で、茅・真菰・藁などを束ねて輪状にしたものです。 ちなみに、シメ縄は茅の輪を解いたもので一文字ともいいます。 茅の輪の由来と蘇民将来の伝説
この茅の輪くぐりの由来譚として(備後国風土記)キビノミチノシリノクニフドキに、次のような話が載っています。
昔、蘇民将来、巨旦将来という兄弟がいました。兄の蘇民将来は大変貧しく、弟の巨旦将来は富んでいました。
あるとき、武塔神(ムトウジン)が南の海の神の女子(むすめ)のもとへ行く途中で宿を求め、金持ちの弟は拒絶したが、貧乏な兄は武塔神を泊め、栗飯などをご馳走して優遇しました。
武塔神はたいそう喜び兄の蘇民一家に茅の輪を与え、腰に付けさせ、その年に流行した疫病から救い、「我は須佐乃男命スサノヲノミコトの神なり」と告げたと言います。
この伝説に基づいて、「蘇民将来子孫の宿」と書いた紙を門戸に張ったりする習慣もあります。武塔神が自らの正体をスサノヲと名乗った事から、この説話は京都の祇園社、須佐乃男命を祭った八坂神社の縁起にもなっています。
厄除けと節分
節分の日になぜ厄除けをするのか
厄除けの習俗が節分の日に多いのは、節分の翌日が立春だからです。
現代はお正月を太陽暦で祝っているため、季節感が少しズレてしまっていますが、年賀状に「新春」だとか、「迎春」、「初春」などと書くのは、過去、陰暦を使う時代の、こうした正月を迎える気分が残っているからなのです。
すなわち、毎年、春を迎えることは、私たちの祖先にとって、正月を迎えることであり、同時に新年の神様を向かえることでもあるでしょう。
そのため、厄除けが節分の日に発展しました。
また正月に与える「お年玉」は、もともとはこの年神の魂の事を意味していたそうです。 節分には仙台成田山で厄除けをされてはいかがでしょうか。 節分の由来と厄除け
節分という言葉は、漢字のもつ意味からいうと、”季節が分かれるとき”という意味です。本来は立春、立夏、立秋、立冬はいうまでもなく春秋のお彼岸、八十八夜、入梅、土用、二百十日、お節句、七夕、中元など、すべて節分といいます。
明治5(1872)年になってから、明治政府は旧暦を廃止し、現在使われている太陽暦を採用しました。12月3日をもって明治6年元旦とすることに定めるのです。
このときも節分より早く元旦を迎えるので、庶民は大いに困惑したと伝えられています。
立春には「立春大吉日」と書いているお札を門戸に貼る習俗があります。
もともとは中国から伝えられた習俗ですが、わが国でも広く行われるようになりました。
春を迎えるにあたって、節分に冬の邪険を払って新しい年の福を希(願)うことから、いろいろな習俗が生まれるのです。 節分「悪の鬼」と「福の鬼」と厄除け
現在では鬼は節分のイメージが強いですが、日本人にとってどのような意味をもっていたのでしょうか。ごく簡単に歴史をふりかえってみましょう。
『日本書記』斉明天皇7年(661年)8月には、大笠をかぶった鬼が天皇の御大葬をのぞき見ているという記述があります。
何となく不気味ではありますが、人間に危害を加えるものではありません。
鬼が人里に現れて暴れだすのは、奈良時代に入ってからのことです。
平安時代に書かれた『日本霊異記』や『今昔物語』などには、行きどころのない横死者、祀られない霊といった死霊・怨霊が鬼となって、その場所を訪れた人間を食べてしまうといった、死霊・怨霊のタタリの存在が説かれています。
ところが室町時代の『御伽草子』になりますと、恐ろしい鬼の面影はなく、ユーモラスで逆に人に恵をもたらすという鬼が登場します。
たとえば『一寸法師』では、一口でオニに飲み込まれてしまった一寸法師が腰に差した針の刀を抜いて腹を突きまくると、降伏します。
慌てたオニは望み物を何でも打ち出すことのできる「打ち出の小槌」をおいて逃げてしまいます。
姫君が小槌を振ると、一寸法師はたちまち一人前の若武者になり、金銀財宝を打ち出し、姫君と結ばれてハッピーエンドとなるといったストーリーです。
年中行事の上からみてみますと、「幸せをもたらす鬼」が登場するのは、大分県国東(くにさき)の六御満山(ろくごうまんざん)で営まれる「修正鬼会(しゅしょうおにえ)」があります。
招福的なオニの性格は、このほかに秋田県のナマハゲや薩南屋久島の甑島(こしきじま)のトシノカミ、沖縄八重山の赤マタ・黒マタなどがあります。
このように、オニには「恐ろしい鬼」と「幸せをもたらす鬼」の二種類が存在することがわかります。このことを反映して、節分に登場する鬼も二種類あることになります。 厄除け節分で何を願うのか
節分のときの常套句といえば「福は内、鬼は外」。
さてそのとき人々は、具体的になにを思い描いて「福」「鬼」という言葉を節分で使っているのでしょうか?
厄除節分の日にちなんで、全国の人にアンケートの調査結果によると、節分で来てほしい「福」の人気ナンバーワンは、お金と宝くじの当り券。
以下は健康、結婚・恋愛の順になっていました。
一方、厄除で出て行ってほしい「鬼」は、1位が病気、2位が借金やローン、3位がナマケ癖や悪い性格というものでした。
節分におけるお金と健康と精神的充足の3つとは、バランスのいい結果が表れたといえるでしょう。
節分の厄除け豆まき(節分祭)
厄除けと節分豆まきの由来
厄除け節分豆まきが、わが国に伝わって、文武天皇の慶雲3年(706年)に宮中で初めて厄除け節分まめまき営まれたことが『続日本紀』にかかれています。
その記事によりますと、節分豆まきは慶雲3年には諸国に疫病が流行して多くの死者が出たので、土牛を作って大いに「おにやらい」したと記述されています。
それが厄除け豆まきのもとになっています。
なかでもまめまきが行われる神社・仏閣として、京都市の吉田神社、廬三寺、奈良市の春日神社、熊本県の阿蘇神社、千葉県の成田山新勝寺などが有名です。
一風変わった厄除け節分まめまきの行事として下谷(したや:現在は上野公園の中にあります)の五條天神では、逃げる赤鬼、青鬼を待ち受けていた武者が桃の弓に葦の矢をつがえてこれを射、福助の面をかぶった男性が、鬼の後から豆を投げつけるのです。 厄除け節分会と豆まき
節分会には、多くの場合駆逐する鬼に豆がまかれますが、これは中国の習俗をそのまま伝えたものです。
すでに、わが国では散米(うちまき、打撤)といって、米をまいて悪霊を払う呪法がありましたので、豆をまくことが容易に受け入れられたものとみることができます。
東京雑司ヶ谷の鬼子母神では「鬼はうち、福は内」といいます。「鬼は外」といえば祭神を追い出すことになってしまうからです。また九鬼家では「鬼は内、福は内、富は内」と唱えるそうです。
鬼は悪鬼ではなく、幸せをもたらす鬼であるからです。
善い鬼と悪い鬼がいるのは、人の心のあり方を示しているのでしょう。豆をまくのは、私たちの心の中にある悪いおにを追い出して、幸せに人生を送れるようにと反省と希(願)いとが込められているのでしょう。 節分豆まきと厄除け
2月3日ごろの節分に行われる豆まきは「除災招福といい、もともとは邪悪をもたらす鬼を追い払って、幸運だけを我が家にもたらしたいという願いから始まったと言われています。
なぜ2月3日ごろの節分なのかは、翌日が立春だからです。立春は、ほぼ旧暦の正月と重なります。
新年の神様を迎える事で、この新年の神様の事を年神と言います。節分の豆まきは年神を迎える行事です。
大豆を炒った豆を一升枡に入れて、家の外に向かって(鬼は外)、家の中に向かって(福は内)と言いながら豆を投げますが厄は家や身体の外へ、幸せは家や身体の中へという事なのです。
これを、節分の夜に行われる追儺(ついな)式と言います。
一般家庭では(鬼は外、福は内)と唱えてまめをまき縁起として煎った豆を年の数だけ食べます。節分の日に年齢の数だけ豆を食べる事は、年神の魂(年玉)を身体の中に入れることでもありました。
厄年にあたる人には別のしきたりがあり、古式によれば鬼を追い払う為に煎った豆を自分の年の数だけ数えて取り、これに一粒足して、清浄な紙に包み、その包みで頭の先から足の先まで打ちたたき、たたき終わったものを、台所の古い火吹竹と一緒に持って外に出ます。それらを四つ辻に落とし、後ろを振り返らぬようにして戻ってくるというのです。
まめの数を一つ多くするのは、翌日が立春で、数え年が加わるのは正月からではなくて、立春からだという考え方があったからです。 成田山の厄除け
真言宗大本山成田山では、教えに従い、密教の秘法による厄除け豆まきの儀式を行います。
これは当山より心経365返を読誦し、1年365日の一日一日が無魔息災で厄除けがあることを祈る年中行事です。
節分祭、厄除け豆をまく時には真言宗大本山成田山の場合、「福は内!!福は内!!」のみ声がかけられます。「鬼は外」は言いません。
これは仏の教えに従い、鬼だけを追い出すことはできない、すべて平等である、鬼も仏の心を聞けば立派に更生するということから、このような掛け声による厄除け豆まき式の行事があるのです。
厄除け節分豆まきの豆
厄除けと節分豆まきの豆
節分に使う厄除け豆まきの豆は、なぜ大豆なのでしょうか。
篠田統氏によれば、大豆は中国伝来であり、原産地は満州で、中国本土へは紀元前7〜8世紀ごろ移入され、日本へは朝鮮半島を経て伝来したそうです。
しかし『古事記』や『日本書紀』などから推定すると、新渡来の作物として、五穀の中では最も下の席しか与えられなかったのでしたが、大陸ではさかんな生命力をもつため重要視され、呪術的に使用されだしました。
中国最古の医書である『本草』に「鬼毒を殺し、痛みを止める」とあり、江南地方では、冬至に厄払いのために小豆粥を炊いたということが6世紀初頭の書にみえ、中国南部では小豆が大豆と同様呪術的に目的で使用されたらしいのです。
それが北方の漢人文化が中国文化の主流となるにつれて、小豆を使っていた地方も大豆を使うようになったと考えられるようになったのでは、というのです。
わが国の豆まきも、つまりは大豆を呪術に使った漢民族の古風をいまに伝えたものということになります。
こうした厄除け節分・年越し・厄除け鬼追い・厄除けなどは泣き笑いの年の暮れを彩るものとしては、格好な道具だてでした。
西鶴も「一とせ大晦日に節分ありて…大豆(まめ)うつ音まことにくらがりに鬼つなぐとは今宵なるべし」「節分大豆(まめ)をも福は内にと随分うつかひもなく」「年越しの夜に入てちいさき窓も世間並みに鰯の首(かしら)柊をさして。
目に見えぬ鬼に恐れて心祝ひの豆うちはやしける」「節分の煎大豆(いりまめ)のあまりに黒米すこし手もとに置て」などと書いており、江戸時代にはとくに豆まきの所見が多いようです。
またこれをしまっておいて、初雷の日にまじないとして食べたり、京都将軍の代には2月の初午の日に献上したといわれております。
なお近世では厄除け節分の夜にとなえる鬼よけの呪文というのがありまして、「やつかがしも候、ながながも候、隣のおばばのおへへのくささが、ふふらふんのふん」と笑わずに言うのです。
これに類似した呪文は各地にあり、豆を炒るときや豆がらを門口に立てるときなどにいっていました。 節分豆まきの豆はなぜ一つ多く食べるのでしょうか
厄除節分といえば「2月の豆まきの日(やくよけ節分)」のことですが、本来これは四季の移り変わりの前日を意味します。
ですから、立春・立夏・立秋・立冬のすべての前日が、節分というのです。
しかし、そのなかでも、眠りの冬から目覚めの春への移り変わりこそが最も大切な境目であり、特にこの日、厄除け節分行事が定着したのです。
厄除節分は、家の中の邪気をはらい、福を招くために豆まきをするわけですが、なぜ「まめ」なのでしょうか。
それは、「まめ」が米とともに日本人の食生活で重要視されてきたものであり、また「まめにコツコツ働く」という語呂合わせの意味もあることからでしょう。
この豆、厄除け節分豆まきの日には自分の年齢より一つ多い数を食べると、たいへん縁起がよいと言われます。
もともとは、厄除け節分の厄年の人が早くその年から逃れるために、わざと一歳多く食べたのだそうです。
それから、他の年齢の人も「難儀なく一年を越してしまえるように」と願って、一つ多く食べるようになったと言われています。
変わった厄除け
柊(ヒイラギ)といわしの頭で厄除け
柊(ヒイラギ)の枝にイワシの頭を刺して家の門に掲げる、あるいは吊るす風習は、節分特有の飾りです。
柊は毒草でトゲがあり、またイワシは生臭物であったため、鬼、すなわち魔除けの効果があると信じられたのです。 厄除けと太巻き寿司
太巻き寿司を丸のまま、その年の恵方を向いてかじると、良い年になるといわれています。
恵方とは、その年の吉方のことをいいます。
住所 :〒980–0845 宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉33-2
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